『回顧』ガダルカナル

今般、今から65年前、南海の一孤島であったソロモン諸島のうちの1つガダルカナル島で展開された日米戦に実際に参加され、死線を乗り越えて日本に生還され、現在も御健在の「ガ島会」会長の山宮様より、ガ島における言語に絶する米軍との戦いについてなまなましい当時の模様について特別寄稿がございました。

戦争のもたらす悲惨さを知り、かかる歴史を風化させることなく正しく後世に伝えて真の平和について考えてゆくことは日本人としての責務であるとの観点から、日本ソロモン友好協会としては、その責務の一端を担うべく、この貴重な寄稿文「回顧 ガダルカナル戦」を掲載させていただきました。

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『回顧』ガダルカナル戰

ガダルカナル島戰歿者慰霊会

ガ島会々長 山宮八州男

平成十九年一月十日 記








靖国に於いてガダルカナル島戰歿者慰霊祭を重ねて、今年で第四十五年目を迎えるに当り往時を偲んでみたい。
哀しい敗戰のドラマへと繋がる苦渋の幕開けであった。日米開戰以来早や半年を過ぎ緒戰の勝利に酔っていたが、昭和十七年六月五日のミッドウェーの海戰に虎の子の航空母艦、加賀・赤城・蒼竜・飛竜の四隻を失ひ、同時に優秀なパイロットを畏失してしまい、その后の作戰に重大なる齟齬をきたした訳である。この海戰の失敗に鑑み海軍は不沈空母としての陸上要地にガダルカナル島に於ける飛行場建設を選んだ。我々の部隊は、海軍第十一設営隊と呼称し、司令は門前大佐であり、同大佐の麾下、士官・下士官・兵は二百八十名程であり、他に飛行場建設の技能労務者約一千三百五十名程が隷属していた。目的地ガダルカナルは、赤道直下の炎熱の太陽と紺碧の海に囲まれた楽園の島であったこの島に悪魔が存在して居るとは日米両国は知る由も無かった。戰史に残るガダルカナルでの激戰は地獄の様相を呈し、死の洗礼を受ける事になった。第十一設営隊は、次いで上陸を敢行してきた第十三設営隊と共に直ちに飛行場建設に取り掛かっていった。連日の突貫工事の最中に敵ボーイング17に偵察発見されて以来、毎日定期便の様に飛来し爆撃を繰返していった。滑走路に大型爆弾が落され直径約十五米位の大穴をあけられ、飛行機が去ると直ちに突貫埋め戻しの工事で、まるでイタチごっこであった。後で知ったことであるが米軍の建設機器はブルトーザー・パワーシャベル・トラクター等の便利な機器を使用し、我々日本軍は昔ながらのツルハシ・シャベル、運搬はモッコという二人で担ぐ非能率的なもので工事能力は雲泥の差があった。約一ヶ月で愈々飛行場完成、味方機の着陸を待つばかりとなり胴体に、翼に、日の丸を鮮やかに印した飛行機の乱舞を夢見ていた。

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ガダルカナル島地図  昭和十七年八月六日は、空あくまで青く暑気更に酷しい日で、かつ本隊上陸一ヶ月の記念日であった。近日中に友軍機がこの飛行場から爆音高く飛び立つと思へば勇気凛々、身も心も躍動を覚へた。翌八月七日、小生は当直で朝四時起床。直ちに集合体操を始め終ると同時に解散したが、その時未明の空に飛行機を認め、友軍機なりやと万歳・万歳を叫ぶ。ややあって突然、吊光弾が投下され、本部及び幕舎が真昼の明るさの中写し出された。何だ。次いで爆音と共に艦砲初弾が炸裂。椰子林の奥に在る炊事所に命中。何事かと夢中で近くの丘に登る。水平線近くの沖合いに米軍機動部隊らしき艦船見ゆ。大型・中型約四、五十隻はっきりと数えられる。進藤宗一中隊長に報告。司令命令に依り本部近くの防空壕に入る。既に、豪の中は満杯。一方軍属達は素早くジャングルの奥に飛込んで行った。

終日およそ十時間余、艦砲及び空母より発進の飛行機から執拗な銃撃を受け全く動く事も出来なかった同日午後三時頃に米軍は遂に東方コリ岬方面より上陸用舟艇で陸続と上陸を開始。しかしながら我等にはこれを阻止する重火砲兵器一つ無し。無抵抗に見逃すのみであった。双眼鏡に写る敵の姿に司令、中隊長切歯すれど打つ手は無かった。

敵軍上陸すると直ちに陣地構築を開始。夜間暗くなるのを待ち門前司令、十三設岡村司令協議の上、両陸兵員総員集合点呼したが、本日の戰死者数名のみと判明したのは意外であった。

門前司令より『本日の敵上陸は誠に残念、既に連合艦隊及び八根司令部に打電済なり。本隊は只今より総力を挙げて肉迫夜襲攻撃を決行する』と力強く命令を下した。

漸次敵陣地に近づき、数名斥候を出し、敵情を探るが前進すると、どこからと無く機銃の乱射、掃射雨の如く前進不可能。有刺鉄線及び電探ありと判断。このまま決死の突撃を敢行すれば敵の餌食となるばかりと、司令は、今夜後方に退がりマタニコ川畔にて夜営と決断された。そして敵情は、遂一関係司令部に報告されて居り、近日中に連合艦隊に依り援軍の上陸があるのでそれまで一時退避すると厳しく命令された以後、本日のような水際追落し作戰は無かったが、我軍の兵力・兵器装備は、米軍の有力なる部隊・重火砲兵器と対比するに余りにも劣勢な装備なので、敵の進攻は早いと見て我々はマタニコ川畔に塹壕を掘り援軍来るまでの合言葉で昼・夜、敵陣方面に銃を向け、見えぬ米軍に対峠していた。八月十二日、いよいよ食糧欠乏。昨日より椰子の実のみ。指旗小隊長の許可を得て、若年の兵隊逃走した原住民部落より芋を掘り出す。豚一匹の収穫あり。ジャングルの奥にて料理。豚肉・スープ・芋で久し振りに元気を取戻す。夜九時頃マタニコ川口近くの海岸より機動艇にて米軍突如上陸を開始。第二小隊応戰すれど遂に桜井小隊長戰死。明け方近く突撃を敢行し白兵戰を展開し敵の遺棄死体二十二名。我が方七名戰死。ジャングル内に埋葬する。

g_pic03八月十四日 マタニコ川塹壕にて仮眠す。夜間の敵襲に備えて小休止。昼間の攻撃は無しと安心していたが、対岸の草村から突如軽機銃が撃ち込まれ、若い兵隊二人が倒れた。胸から血を吹き出した高橋二水は「おっ母さん、おっ母さん」と泣き叫んでいる。こんな遠い南の島で悲惨な最期を母親に詫びているのか冥福を祈るや切。仇はきっととってやるぞ。

八月十九日 マタニコ陣地後方コカンボナ・タサファロングに敵機動艇十二、三隻来襲。急遽、上陸し本隊の背後を衝く。第十一設・十三設・陸戰隊高橋隊連合し、若干の見張伝令を残し、進藤中隊長に同行、西方に走る。その時味方駆逐艦の夢かと思ふ出現あり。敵上陸部隊を艦砲と銃撃にて制圧する。

マタニコ川畔の第一小隊の安否如何にと第二小隊急遽駆けつけたが、時すでに遅く指旗小隊長は敵機銃隊の包囲を受け全滅。分隊先任下士官神山兵曹が『今から俺が指揮をとる。俺に続け』と突撃を敢行。遂に戰死。「天皇陛下万歳」を絶叫したと謂ふ。合掌

八月二十二日 時折炸裂する様な砲声・銃声を聞く。敵輸送船数隻・護衛駆逐艦及び軽巡洋艦がゆうゆうとルンガに入港。荷揚げ作業を活発に行っている。鳴々、天に神無かりしか。我が艦隊・飛行機何処に在りや。夜半、砲声が絶える時、ふと故郷の夏の風物詩が走馬灯のように浮かぶ。川畔の前を戰場とは不調和な蛍が精一杯の光を出して乱舞している。生還期し難く只々祖国のため南海ガ島に散るべき運命ならん。皇国の弥栄を祈る。九月に入ると敵駆逐艦西海岸わが陣地附近に接近遊弋し上陸の気配濃厚なり。我が軍の反撃火砲無しと判断なるや。日没頃より豪雨あり幕舎倒壊し水びだしすこぶる憂鬱なり。雨が止むのを待って直ちに西に移動開始。

g_pic04マラリヤ熱発生 空腹疲労困憊重い足を引きずり深夜の行軍である。負傷兵は戰友の肩にすがり重傷兵は担架に担がれ昼はジャングルの中、又夜は草原を遅々として進む。片腕が千切れそうな重傷の古山一水、担がれる身が辛いのか「すまんね、すまんね」と身の細る様な声がしていたが、而し朝方近くには声も無く遂に帰らぬ人となった。

時を追ってガ島地獄の戰闘は喰うか喰われるかの動物本能のみの闘争心で最後まで戰った。揚陸の陸軍は福岡の川口支隊 、岡部隊、二師団青葉部隊、三十八師団、又北海道一木支隊と強者勇士達も戰うに、弾丸無く進むに食料なく加うるに疫病・アメーバー赤痢・マラリヤ、又飢餓の状態が続き、勇躍上陸しても三・四日分の食糧しか無く、十日間位で体力は衰弱の一途を辿るのみであった。食無くしては限界があり、我に大和魂ありとは言えど、精神力のみにては如何ともし難く、遂にはガ島のトカゲを喰い尽くしたと言われている。木の根・草の葉・椰子の実と食して毒で無ければ総て口に入れた。連日これの繰返しの生活では、最早勝利は神風の奇蹟しか無かったのである。陸軍の再三の総攻撃もギフ高地・ムカデ高地(別名:血染めの丘)等で一進一退と善戰すれど、重火砲兵器の差、数倍以上の物資食糧の差は判然としていたが、我軍の決死の肉迫攻撃に敵陣突撃寸前に退却する米兵の指揮官は「お前達に無くて日本兵にあるのはガッツだけだ。永遠に栄光の人生を送りたくないのか」と激怒して叱咤したと言う。小生等が死守していたアウンステン山の見張所も遂に敵に発見され飛行機の銃撃が激しくなったので、山を下り自分で食糧を探すべく昼は椰子の実(別名:ヤシリンゴ)、部落の芋は採り尽くされて居り芋の葉・バナナの木の芯の部分を食べ、夜は海岸に出て暗夜に陸地に上ってくる椰子ガニをこん棒で矢鱈とめった打ちして砕き夜明を待って拾い集めて食べていた。飢餓の状態が益々厳しく、さながら地獄絵の形相であった。

鈴木兵曹も遂にg_pic05ジャングルの仮病舎で横になったまま立上ることも出来なかった。赤痢・マラリア等で高熱を出し「食物をくれ、水をくれ」と声にならず口だけが動いていた。目の辺り唇の辺り粘液を求めて群がる蝿が執拗に吸い付き、真っ黒に密着した様子はまことに異様なまで凄惨だった。「がんばれ、がんばれ」笹の葉で蝿を追いながら声を掛けたが反応はなかった。辺りに死臭が漂っていた。又一人、無残な姿で靖国に還っていった。制海制空権を奪われ常に受身の立場にあり、劣勢の中での朗報は戰艦金剛・榛名の二艦がルンガ沖に”戰艦殴り込み”作戰でルンガ飛行場に海軍独特三式弾を一斉に撃ち込み火の海と化し、その紅蓮の炎は正に地獄の権化とも見えた。

この光景は五十七年前、アウンステン山見張所より望見した当夜の出来事は、ルンガ沖の夜戰、サブ島沖の海戰と共に小生の瞼に焼き付き生涯忘れる事のない痛快なことである。

爾後の作戰・戰闘は最早戰局を逆転する事は不可能に近かった。勝算は程遠く生死のはざまを彷徨する兵が日に日に増え、物資の輸送も絶え無念の裡に時は流れていった。十八年一月半ば遂に「大命下る」。残余の兵を一人でも多く撤退せしめよとの事であった。

命令の伝達を受け部隊毎に、又は三々五々傷病兵を助けつつ西へ西へと集結地エスペランスを目指して、昼はジャングルの中を、夜は海岸線を弊衣破帽、疲労その極に達し、地獄の島を脱出するのだとの気力のみで這うように前進を続けていった。負傷兵は戰友愛に包まれ助けつつ、助けられつつ担がれるこの身は天の神に委ねるのみであった。

昭和十八年二月一日・四日・七日の三夜の撤収作戰は、g_pic06毎回駆逐艦二十余隻の決死の行動に依り戰史に残る奇蹟の作戰は大成功に終った。撤退に伴う悲劇的なエピソードを申し上げたい。陸軍の一下士官の実話である。米軍砲弾の破片に依る左大腿部の傷口から放つ異臭と蛆が盛り上がっていた。二月二十八日であった。海兵隊一個分隊十五・六名の兵隊が撤退日本兵の残敵捜索を行っていた。彼はもう一歩も歩く事も出来ず動転してしまった。米兵に両側を抱かれ小高い丘の上まで連行された。二〇〇名位の部隊で「ジャップを殺せ」と怒鳴っていた。一人がタオルで顔を覆った。銃殺指揮の軍曹に突如、海兵隊大尉が「私の命令だ、日本兵は殺してはいけない」と言って止めた。本部に連行され種々と質問を受けたが、最後に「もうこの島には日本兵は居ない」と二世の伍長が通訳されたとき、彼は頭の中が真白になった。不敗を誇り、神風が吹くと信じていたが、もうこの世に神も仏もあるものかと大声で泣き叫んだ。幕舎から米軍々医少佐が彼の傷口を見て「この日本兵は助からんよ」と言ったとたんに意識を失い、その場に倒れて仕舞った。時間の経過は解らないが、ふと目を開けるとベッドに寝かされて居り、傷口はウミも蛆もなく真っ白い包帯が巻かれていた。側に女性看護婦が立っていた。

g_pic08 二世伍長が彼に伝えた「お気付きなりましたか」とやさしい声で、更に「よくこの体で生きていられましたね、無駄かと思いましたが、万一と思って強精剤の注射を打ちましたのよ。あなたは死ぬことは考えないで強い気力と意志を持って生きなさい。きっと将来明るい光が必ずあなたを照らす日がくるでしょう」と言って胸に十字架をきった。「二・三日中に病院に入院する手続きをとって置きましたから、それまで大事にして下さいね」と言った。前線の一捕虜の命をこんなに手厚く看護してくれたこの看護婦に心うたれ、神とも思えた。今は起き上がる事も出来ない体だが、胸の中で手を合わせ温かい人間愛、そのヒューマニズムに涙が出て止まらなかったと。

戰争、敵味方は別として一人の人間として溢れる温かい愛情に往時を思い出し、私も涙を止める事が出来なかった。今は会う事の出来ないこの一女性に、感謝を込めて真心からどうも有難うの言葉を伝えたい。

平成九年八月、現地ガダルカナルに慰霊巡拝に参った折、ホニアラ飛行場に着陸、税関手続中日本女子大生らしき学生が四人程居たので「慰霊ですか」と尋ねたらキョトンとした顔をして居り「私達は仲良しグループでスキューバダイビングに来ました」との返事、正に現代っ子。「おじさん達は?」ビックリ唖然「この島は今から五十年以上前に日米決戰場で日本の兵隊が二万三千人も尊い命を落している処で未だジャングルの中、この近い海で戰死した戰友の慰霊に来たのです」と話をした。

その時は目を落していたが、余にも日本の歴史に無関心なのが残念。現在の日本の平和な幸せは尊い犠牲があったのですと一言、話をした。
ガ島戰に投入された将兵は陸海軍含めて約三万二千人、戰病死者約二万三千人と記録されて居る。

最後に、戰争と言うものはこれだけ人類に文明・文化を発展させた人間の英知を以てしても避けられないものでしょうか。人間のエゴでありイデオロギーの違い、又自国民族の人種顕示の思い上がりでありましょうか。戰争の悲劇は永久に残されるのでしょうか。今日も又、地球の何処かで殺し合いの戰争が行われています。本当に悲しい事であります。

「兵は斯く戰へり」常に銃を持って前線へ前線へと生死を賭けて、同じ人間同士が何故憎しみ合って殺人行為をするのでしょうか。隣にいた戰友が一瞬振り向いた時、一発の弾で即死したのを見ています。兵は黙々と命令に行動しているのです。

二年程前、NHKのテレビ番組のガダルカナルシリーズで「敵を知らず己を知らずして何の勝利ぞや」のタイトルがありましたが、戰争とは勝者も敗者もお互いに傷つき敗者は勿論のこと、勝者と言えども未来にわたって悔悟の人生を送ることになります。日本には武運拙く生き残りし者と言う言葉がありますが、人事を尽くし生還をなした小生ですが、あの地獄のガ島戰で斃れた戰友を想う時、未だあのジャングルの奥地に眠り、望郷の想い如何ばかり、たとえ一片の骨でもふるさと日本の土に戻したいと願いつつ、三たびガ島に遺骨蒐集を兼ね慰霊巡拝に参りました。

小生は神仏の加護に拠り余生を健康に恵まれれば、亡き戰友の慰霊に誠を尽くす決心であります。
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