戦争と平和

ある時代の日本人の間では「餓島」という名で知られている南太平洋上の小島ソロモン諸島のガダルカナル島において、大東亜戦争開始時に日本軍が建設した飛行場の争奪をめぐり、くりひろげられた日米両軍の間での壮絶な戦いとこの戦いにおける日本軍の敗北は以後、日本が坂をころげ落ちるかの如く敗戦への道へと進む分岐点となった特記すべき1ページであった。戦後行われた多くの戦史検証において共通して言えることは、日本軍部は「ガ」島での惨憺たる敗北から何も学ばず、同じことを際限なく繰り返し続ける、いわば日本人の独善性と硬直性と無反省、そして情報無視が日本に悲惨な結末をもたらしたとして、現代日本社会に警鐘を発していることである。以上のような特質を持つ「ガ」島での戦いを通じ、現代に生きる我々日本人が、この戦いの失敗から多くのことを学び、そして真の平和の意味を学ぶことが、更なる平和国家・日本を作り上げていく上で極めて重要なことである。

ガダルカナル戦小史

t_point_041942年5月、日本軍はガダルカナル島の対岸にあるツラギ島に上陸し、翌年2月にガダルカナル島北西部のエスペランス岬から撤退するまでの9ヵ月間、米軍との間で陸と海での悲惨な戦いが続き、日米両軍に多くの犠牲者を出した。

ガタルカナル島での最初の戦いは、1942年8月7日に日本軍が建設したルンガ飛行場(現ホニアラ国際空港)を奪取するためにホニアラの東約15kmにあるレッドビーチに上陸した米軍と、それを取り戻すために8月18日にタイボ岬に上陸した日本軍一木支隊の間で行われた。

ルンガ飛行場はアメリカ軍によって拡張されて、ミッドウェイー海戦で日本の零戦に打落とされた米軍パイロットの名前をとってヘンダーソン飛行場と呼ばれるようになった。

このアリゲーター・クリークを挟んでの戦いは2日間におよび、全滅はしたものの一木支隊将兵800人の凄まじい抵抗が今日まで語り伝えられている。この後、日本軍はブラッディ・リッジ(血染めの丘)からギフ・リッジ、シー・ホース・リッジと激戦を続けながら次第に島の西へと撤退することになった。この間に、日本軍の多くの将兵はマラリアなどの病気や餓死により倒れた。結局1943年2月7日に生き残りの日本軍将兵は日本海軍駆逐艦20隻に救出されガダルカナル島から撤退した。
t_point_03
 また、海での戦いも1942年8月7日の第1次ソロモン海戦から11月30日のルンガ沖の海戦まで9回行われた。特に8月23日から24日にかけての第2次ソロモン海戦は日米両軍で73隻、10月26日から27日にかけての南太平洋海戦では同じく72隻が戦ったと記録されている。

70年前に日本軍がラバウルの前進基地として建設した飛行場の争奪をめぐり、ここガダルカナル島で日米両軍が干戈をまじえ、残念ながら多くの日本兵士が亡くなられました。いまだに多くの英霊が眠っておられます。この事実は多くの日本人が知るべきであり、風化させることなく語り告がねばなりません。
今でもその戦跡は多く残っていますが、今回はその1部を紹介します。